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■最初と2つ目の赤文字


ベアト EP2 5日06:50〜07:15
真実を語る時、赤を使うことにする
妾が赤で語ることは全て真実
 
→初めて使われた赤文字と2つ目に使われた赤文字
→一見するとほぼ同じ内容にも見える赤文字を何故2度重ねているのか?
→仮にベアトが真実以外を語るときにも赤を使ったとする
→2つ目の赤文字には反する
→1つ目の赤文字には反しない
→2つ目のように宣言すべきところで1つ目のように宣言されると上のような抜け方が出来る
→一見似ているが実は効果が全く違う赤文字を最初に2つ重ねてみせた
→親切にも赤文字の疑い方・チェックの仕方を教えてくれている
・2つ目はベアト以外の赤文字については何も保証していない
・1つ目は対偶を取ると、赤を使わないのは真実を語っていない時、となる
→日本語の解釈の幅はあるが、白文字が全て虚偽であるとする解釈の強力な傍証ではある


■対偶・逆・裏

・この考察では命題「AならばB」の略記は「A→B」とする
→「AならばB」を「A=B」と略記すると「BならばA」(逆)との誤解が生ずる可能性があるため

・命題「AならばB」(A→B)
・対偶「BでないならAでない」(Bでない→Aでない)
・逆「BならばA」(B→A)
・裏「AでないならBでない」(Aでない→Bでない)

→元の命題の真偽と対偶の真偽は常に一致する
→元の命題の真偽と逆・裏の真偽は一致することも一致しないこともある
→逆と裏は対偶の関係にあり、真偽は常に一致する

→元の命題が真であるならば対偶も真である
→このとき2つの真実があると考えるべきではない
→1つの真実を2つの言い回しで表現したと考えるべき
→対偶は元の命題から推論して得られる別の命題と考えるべきではない
→対偶は元の命題を別の言い回しで表現し直しただけと考えるべき

・対偶は、不慣れだと逆や裏と取り違え易い
→○「逆は必ずしも真ならず」論理学的には真の場合と偽の場合がある
 ×「逆も又真なり」論理学的には真の場合と偽の場合がある→常には成り立たない
 →ある特定ケースでだけ、逆が真である、という主張としてなら問題ない

・冒頭の最初と2つ目のの赤文字は、論理学的逆の関係にある→前述の通り真偽は常には一致しない


■ヘンペルのカラス

・論理学的には(全称命題と)対偶の説明そのものと言える

・ベアトに合わせて「黒い鳥」「黒くない鳥」「全ての鳥」で説明する
→「黒いもの」「黒くないもの」「全てのもの」で説明されるケースもある


・正攻法

・「カラスは黒い」が真
→「カラスは黒い」が常に真(を証明したいと解釈すべきであろう→全称命題)
→「全てのカラスは黒い」が真(「あるカラスは黒い」ではない→常に真にならないため)
→「全てのカラス」を調べる→「全てのカラスは黒い」の真偽が判断できる

→結果

・「あるカラスが黒い」が偽(「全てのカラス」の調査中に1つの反例を発見)
→「全てのカラスは黒い」が偽
→「カラスは黒い」が常に真、ではない
→「カラスは黒い」が偽

・「全てのカラスは黒い」が真(「全てのカラス」の調査で反例が0)
→「カラスは黒い」が常に真
→「カラスは黒い」が真


・論理学上の「ヘンペルのカラス」

・命題「カラスは黒い」が真
=対偶「黒くない鳥はカラスでない」が真

・「カラスは黒い」が真
→「カラスは黒い」が常に真
→「全てのカラスは黒い」が真

・「黒くない鳥はカラスでない」が真
→「黒くない鳥はカラスでない」が常に真
→「全ての黒くない鳥はカラスでない」が真

・「全てのカラスは黒い」=「全ての黒くない鳥はカラスでない」(対偶)
→「全ての黒くない鳥」を調べる→「全てのカラスは黒い」の真偽が判断できる

→結果

・「ある黒くない鳥がカラス」が真(「全ての黒くない鳥」の調査中に1つの反例を発見)
→「全ての黒くない鳥はカラスでない」が偽
→「全てのカラスは黒い」が偽(対偶)
→「カラスは黒い」が常に真、ではない
→「カラスは黒い」が偽

・「全ての黒くない鳥はカラスでない」が真(「全ての黒くない鳥」の調査で反例が0)
→「全てのカラスは黒い」が真(対偶)
→「カラスは黒い」が常に真
→「カラスは黒い」が真

・後者(真)の場合、カラスを1羽も調べていない(前者(偽)の場合は1羽調べている)


・論理学を離れる(コスト検証)

→何らかの効果があるのか?
→「全てのカラス」の調査と「全ての黒くない鳥」の調査はどちらが大変か?
→違う。それだけでは手順が抜けている
・前者は「全ての鳥」を調べて「全てのカラスでない鳥」を調査対象から外す作業が必要
 →未調査の「カラス」が存在しないことを保証するため
・後者は「全ての鳥」を調べて「全ての黒い鳥」を調査対象から外す作業が必要
 →未調査の「黒くない鳥」が存在しないことを保証するため
→「全ての鳥」を調べる必要があるので調査回数はどちらも同じ→正攻法が明らかに低コストとはいえない

・「カラス」「カラスでない鳥」存在比率
・「黒い鳥」「黒くない鳥」存在比率
・「黒い鳥」「黒くない鳥」見分けコストと「カラス」「カラスでない鳥」見分けコストの比率
→これらによっては大幅にコストが異なる可能性がある
・「カラス」<<「カラスでない鳥」(<<:左が圧倒的に小さい)
・「黒い鳥」<<「黒くない鳥」
・「黒い鳥」「黒くない鳥」見分けコスト<<「カラス」「カラスでない鳥」見分けコストの比率
→と仮定する(1つ目2つ目は常識的判断、3つ目も常識的に色の見分けのほうが低コスト)と

・正攻法
→「全ての鳥」から「カラス」を漏れなく選び、その全てが「黒い」かどうかを調べる
必要:「黒くない鳥」→「カラス」「カラスでない鳥」の見分け
必要:「黒い鳥」→「カラス」「カラスでない鳥」の見分け
必要:「カラス」→「黒い鳥」「黒くない鳥」の見分け
不要:「カラスでない鳥」→「黒い鳥」「黒くない鳥」の見分け

・ヘンペルのカラス
→「全ての鳥」から「黒くない鳥」を漏れなく選び、その全てが「カラス」かどうかを調べる
必要:「カラス」→「黒い鳥」「黒くない鳥」の見分け
必要:「カラスでない鳥」→「黒い鳥」「黒くない鳥」の見分け
必要:「黒くない鳥」→「カラス」「カラスでない鳥」の見分け
不要:「黒い鳥」→「カラス」「カラスでない鳥」の見分け

→不要となる部分のコストはどちらが大きいか?
・おそらく「黒い鳥」より数が多い「カラスでない鳥」の調査回数が削減できる
・おそらく「色の見分け」よりコストが高い「種の見分け」回数が削減できる
→対象を選ぶために世界を一周し、対象を調べるために世界をもう一周するならどちらともいえない
→選択と調査を一周で行うなら、正攻法の不要部分は選択のついでに調査できる内容
→(現実にはどちらも不可能としても)「ヘンペルのカラス」方式が正攻法より充分低コストと推測できる


・ロノウェの「ヘンペルのカラス」を戦人は思考を重ねて打ち破ったように見える
→論理学上の「ヘンペルのカラス」は対偶そのものであり、いくら考えても打ち破れない
→ロノウェの「ヘンペルのカラス」は論理学上の「ヘンペルのカラス」(=対偶)ではない

→ロノウェの「ヘンペルのカラス」は、逆や裏との取り違えを利用した詐術だと考えられる
→この取り違えを避けるには、命題を省略せず、愚直に表現し続けることが有効と考える
・全称命題については「全ての〜」を省略しない(「ある〜」と取り違えるため)
・「AならばB」を「A=B」と略記しない(「BならばA」と取り違えるため)
→「AならばB」は「A→B」と略記する(「BならばA」と取り違えにくい)


・以下、セリフを追いながら検証する


 ……つまりこういう手だ。
 カラスが黒いことを証明するにはどうすればいい?

 は?
 何の話だ??
 カラスが黒いことを証明って…。
 …カラスを捕まえてきて、色が黒いことを確認すりゃいいだけの話だろ。
 
→○「全てのカラスは黒い」と
 ×「あるカラスは黒い」の取り違えが発生


 その通り。
 “カラス=黒い”、を証明すれば良い。
 
→「全てのカラス→黒い」と略記すべき
→○「カラスは黒い」と
 ×「黒い鳥はカラス」の取り違えの可能性
→○「全てのカラスは黒い」と
 ×「あるカラスは黒い」の取り違えの可能性


 ということは、“黒くない鳥=カラスではない”、を証明しても、同じ論法になるのがわかるかな?
 
→「全ての黒くない鳥→カラスではない」と略記すべき
→○「黒くない鳥はカラスではない」と
 ×「カラスではない鳥は黒くない」の取り違えの可能性


 世界中の、カラスでない鳥を全て調べ、それらが黒くないことを証明すれば、
 
→○「黒くない鳥はカラスではない」(元の命題の対偶)と
 ×「カラスではない鳥は黒くない」(元の命題の裏)の取り違えが発生


 それは結果的に、“ゆえに黒い鳥はカラスである”となるわけだ。
 
→○「カラスは黒い」(元の命題)と
 ×「黒い鳥はカラス」(元の命題の逆)の取り違えが発生
→元の命題が論理学的逆に変化している
→○「(全ての)カラスは黒い」=「カラス以外の黒い鳥が居てもよい」
 ×「(全ての)黒い鳥はカラス」=「カラス以外の黒い鳥は居ない」


 これを対偶論法という。
 
→いわない

→冒頭にあげた最初と2つ目の赤文字と同様に、最初に露骨なヒントを出されていると思われる
→詐術の種として論理学的逆が使われているのも最初と2つ目の赤文字と同様



 例えば、ここに2つの箱があり、
 片方はアタリで中にクッキーがあり、もう片方はハズレで空っぽだとする。
 
→この問題の定義だけから(対偶を考えずとも)真といえる論理命題
・「アタリ→クッキーがある」(命題1=真)
・「クッキーがある→アタリ」(命題2=真)
・「ハズレ→空っぽ」(命題3=真)
・「空っぽ→ハズレ」(命題4=真)
・「一方がアタリ→他方はハズレ」(命題5=真)
・「一方がハズレ→他方はアタリ」(命題6=真)
・「一方にクッキーがある→他方は空っぽ」(命題7=真)
・「一方が空っぽ→他方にクッキーがある」(命題8=真)
・「一方がアタリ→他方は空っぽ」など、以下省略
→命題1と2、3と4、5と6、7と8、は論理学的逆の関係だが、
 これらは何れも問題の定義から独立に真であると判断できる
→「逆は必ずしも真ならず」だが、この問題では定義から「逆も又真なり」になっている

→あくまでも、問題がそのように定義されているから、であることに注意


 この時、“クッキーが入っている=アタリ”となり、
 同時に“アタリでない=クッキーが入っていない”ともなるわけだ。
 
→「クッキーが入っている→アタリ」(命題2=真)
 「アタリでない→クッキーが入っていない」(命題2の対偶=真)(≠命題3)

→「アタリ→クッキーが入っている」(命題2の逆)(本来真偽は命題2と一致するとは限らない)
 「クッキーが入っていない→アタリでない」(命題2の裏)(命題2の逆とは真偽が一致)

→「アタリ→クッキーが入っている」(命題1=真)(この問題では命題2の逆も真)
 「クッキーが入っていない→アタリでない」(命題1の対偶=真)(この問題では命題2の裏も真)

→この問題のような特殊な条件に限れば
 「クッキーが入っている=アタリ」(この問題では逆も真)
 「アタリでない=クッキーが入っていない」(この問題では裏も真)
 という(「→」を使わない)「=」の表記も必ずしも誤りとはいえない

→あくまでも、問題がそのように定義されているから、であることに注意


 この関係にある時、後者を対偶と呼ぶ…。
 “AであるならB”である時、それは同時に“BでないならAではない”でもあるわけだ。
 
→この部分は対偶として正しい

→対偶論法の例としているのだから、上記の真である命題群の内、
 「クッキーが入っている→アタリ」(命題2=真)
 「アタリでない→クッキーが入っていない」(命題2の対偶=真)(≠命題3)
 だけを考慮すべきだろうと考えられる→他も採用すると対偶を考えずとも真となるため


 …そりゃ当然だろうよ。
 もし選んだ方がハズレだったなら、もう片方は自動的にアタリってことになる。
 
→他方の箱がアタリなのは命題2とその対偶とは全く関係ない

→問題の定義から「一方がハズレ→他方はアタリ」(命題6=真)だから

→「クッキーが入っている→アタリ」(命題2)と
 「アタリでない→クッキーが入っていない」(対偶)は同じ真実を2つの言い回しで表現しているだけ
→どちらも1つめの箱の話
orどちらも2つめの箱の話

→「クッキーが入っている→アタリ」=アタリの箱の話で
 「アタリでない→クッキーが入っていない」=もう一方の箱の話、ではない、ことに注意

→省略せずに書くと、

 「1つめの箱にクッキーが入っている→1つ目の箱がアタリ」→命題5から2つ目の箱がハズレ
 「1つめの箱がアタリでない→1つめの箱にクッキーが入っていない」→命題6から2つ目の箱がアタリ
及び
 「2つめの箱にクッキーが入っている→2つ目の箱がアタリ」→命題5から1つ目の箱がハズレ
 「2つめの箱がアタリでない→2つめの箱にクッキーが入っていない」→命題6から1つ目の箱がアタリ

→対偶として考える限り、それぞれに他方の箱は登場しないことに注意

→「1つめの箱にクッキーが入っている→1つ目の箱がアタリ」
→命題5から2つ目の箱がハズレ
→「2つめの箱がアタリでない→2つめの箱にクッキーが入っていない」
→これらが何れも真であるため、この2つを対偶と誤解しそうだが、これは命題5が結び付けただけ
→対偶はあくまでも1つ目の箱についてだけ、2つ目の箱についてだけ、で、それぞれに存在している


 …つまり、箱を適当に選び、アタリを引こうとハズレを引こうと、
 最初の一手でどっちの箱にクッキーが入っているか、特定できるわけだ。
 
→他方の箱の結果が分かるのは命題2とその対偶とは全く関係がない

→問題の定義から、命題5=真、及び、命題6=真、だから


 開けた箱にクッキーが入っていたなら“悪魔の証明”を満たす。
 
→「悪魔の証明」は、いないものを連れてくること、ないものを持ってくること
→クッキーは命題5、6からどちらかの箱に入っているので「ないもの」ではない→無関係

→魔女側の「悪魔の証明」は、実際に連れてくれば、存在しないを否定できる、の意味も含む
→問題の定義から存在するものを証明する必要はない→定義とはそういうもの


 “この箱はアタリ=この箱にはクッキーが入っている”をまさに実証できるわけだ。
 
→「この箱はアタリ→この箱にはクッキーが入っている」は命題1=真、命題2とその対偶とは無関係
→「この箱にはクッキーが入っている→この箱はアタリ」が命題2として正しい表記(上の行は命題2の逆)
→「逆は必ずしも真ならず」だが、問題の定義からここでは「逆も又真なり」になっている
→「=」に惑わされて論理学的逆が常に真と誤解しないように注意


 しかし、開けた箱が空っぽだったなら、この時は逆に“ヘンペルのカラス”を満たす。
 
→「開けた箱が空っぽ」
 「クッキーが入っている→アタリ」(命題2=真)
 「アタリでない→クッキーが入っていない」(命題2の対偶=真)(≠命題3)
 命題2とその対偶だけ(「ヘンペルのカラス」)から判断できることは何もない
→命題4、6、8からなら判断できることがあるが、別の命題を持ってきても「ヘンペルのカラス」とはいえない


 “この箱にクッキーが入っていない=この箱はアタリではない”となるのだから。
 
→「この箱にクッキーが入っていない→この箱はアタリではない」は命題1の対偶=真、命題2とその対偶とは無関係
→「この箱はアタリではない→この箱にクッキーが入っていない」が命題2の対偶の正しい表記(上の行は命題2の裏)
→「逆は必ずしも真ならず」だが、問題の定義からここでは「逆も又真なり」になっている
→「=」に惑わされて論理学的裏が常に真と誤解しないように注意


 そしてそれは、箱が2つしかないことを前提としている限り、
 それはもう片方の箱が自動的にアタリであることを対偶的に示している。
 
→他方の箱がアタリなのは命題2とその対偶とは全く関係ない

→問題の定義から「一方がハズレ→他方はアタリ」(命題6=真)だから


→元々問題の定義から逆・裏や2つの箱の関係などの命題(特に命題5、6)が真になるように作っておき、
 問題の定義から常に真であることを、1つの箱の特定の命題の対偶として真になったように偽装しているだけ
→「=」のイメージから、左右の依存関係を無視して何度も論理学的逆と入れ替えている



 まずそなたは、“18人の中に犯人はいない=ならば犯人は19人目”としている。
 
→犯人は19人の中にいるという前提条件が必要


 …ならば対偶として、こうなるわけだ。
 つまり、“犯人は19人目ではない=ならば18人の中に犯人がいる”!
 
→この部分は対偶として正しい→「=」を使っているが、「ならば」があるので明確


 この場合、片方の箱は“18人”を示し、もう片方の箱は“19人目”を示します。
 
→一方が「18人」なら他方は「18人以外」でないと全ての可能性を含まない
→犯人は19人の中にいるという前提条件がある場合は問題ない→ここではその前提条件はない


 ならばクッキーはつまり“犯人”を示すわけです。
 戦人さまは、18人の箱を開けられます。
 そしてクッキーがそこになかった為、
 “=クッキーは19人目の箱に入っている”と逆説的に証明されたわけでございます。
 ならばそれはさらに逆説的にこうも申し上げられます。
 つまり、19人目の箱が空っぽであることを先に示したならば、
 “18人の箱の中にクッキーが入っている”ことを同様に実証してしまうわけです。
 
→繰り返すが、先ほどの問題は対偶とは無関係で、
 「一方にクッキーが入っており他方は空っぽ」
 を問題の定義としていたことだけから成立している
→対偶も「ヘンペルのカラス」も全く関係していない
→先ほどの問題(の命題5、6)と同様であるためには
 「クッキーがどちらの箱にも入っていない」と
 「クッキーがどちらの箱にも入っている」の
 両方の可能性がないことを別途証明する必要がある
→下位世界のゲーム盤に対して同等の条件を定義する必要がある
→前者を否定するには人間の犯人を赤文字で肯定する必要がある


 そして宝箱の数を2つではなく、
 18人分+19人目用ということで、
 合計19箱用意して考えれば、さらにわかりやすくなる。
 まず、人間犯人説は、必ずどれかの箱に爆弾が入っているという前提を成立させる。
 
→直接殺人に関してこの瞬間の世界人口と同数の箱が必要
→間接殺人に関してこの瞬間までの歴史上の累積人口と同数の箱が必要


 俺とベアトでは、持論を説明する手間が18倍も違うのだ……。
 
→18倍どころではない→魔女側が



 ……例えば、“私以外の人間=愚かである”という命題があったとします。
 これを証明するには本来、私を除く全人類を調べ、愚かであることを証明しなければなりません。
 …しかし、何十億人も調べるなど、現実には不可能でしょう。
 戦人さまの18箱を開ける手間とまったく同じです。

 しかし“ヘンペルのカラス”ならば、その命題は対偶的にこう変換される。
 つまり“私以外の人間=愚かである”を、そなた風に言うならば、
 チェス盤を引っ繰り返し、“愚かではない=私”として証明しても良いということだ。
 ……つまりどういうことだと思う?

 “妾が聡明である”という事実を知るだけで、
 全人類は愚かであることの何十億人分もの証明が直ちに終了してしまうわけだ。
 全人類が妾よりも愚かであることを、わずか1秒も掛けずに証明終了できる!!\
 世界最強最速のQED。
 これぞ“ヘンペルのカラス”ッ!
 
→「愚かではない=私」→「妾が聡明である」→「=」のイメージによって論理学的逆と入れ替わっている
→元の命題「私以外の人間=愚かである」からだと論理学的裏と入れ替わっている
→「全ての愚かではないもの→私」ないし「全ての聡明であるもの→妾」が省略しない表記

・正攻法
→「全人類何十億人」から「私を除く全人類」を漏れなく選び、その全員が「愚か」かどうかを調べる

・ヘンペルのカラス
→「全人類何十億人」から「愚かではないもの」を漏れなく選び、その全員が「私=妾」かどうかを調べる

→無視できるほど僅かな差だが、「ヘンペルのカラス」方式?のほうが少しだけ高コストになる
→本来の「ヘンペルのカラス」が黒色の視覚的見分けコストとカラスの生物学的見分けコストの差から
 充分に低コストになることが推測できるのに対し、この例ではあまりにも対偶?が活かされていない



 悪魔どころか、神々も好む一手です。
 “幸福である=神の僕”を命題とする時、
 
→この「=」も逆で「神の僕→幸福である」と言うべき所ではあるまいか?


 対偶は“神の僕でない人間=幸福であってはいけない”となります。
 
→ならば「不幸になった→神の僕ではない」が正しい対偶
→……つまり不幸になるような奴は神への……いや、追求はするまい


 確かに俺は、わかりやすく19人目という言い方をしたが、
 “悪魔の証明”によって18人以上人間を増やせるなら、
 それは10人いるか100人いるかもわからない、不特定多数ということだ。

 ……そうさ。
 お前の“ヘンペルのカラス”を使うには、
 まず、18人以外に何人の人間がいるのかを、赤で確定させる必要がある。
 その上で、それらの人間についてさらに赤で犯人でないことを宣言したならば、
 ……なるほど、こいつは俺にとって致命傷になるだろうぜ。
 
→それに加えて、先にあげたように、あらかじめ
 18人の中と18人以外の中に犯人がいないケース
 18人の中と18人以外の中に共犯がいるケース
 を赤文字で否定しておかないと、2つの箱とクッキーの例と同じ条件にならない
→特に前者を否定するのは表現を工夫しないと魔女にとって致命傷
→一方18人以外の人数確定については、
 在島18人以外の人間の中に犯人は居ない
 という表現でも条件としては先の例と同じになる

→とはいえ戦人が珍しく同一シーン内で完全に自力だけで切り返している
→このような結果になるならば、いったい何のために「ヘンペルのカラス」を持ち出したのか
→実際に打ち破られたのは対偶論法でもなんでもない
→論理学的逆・裏との入れ替えという欺瞞も多用されたが、
 一番大きいのは問題の定義として最初から真だったことを、
 いかにも対偶論法で真と推論できたように見せただけだった
→対偶論法は議論によって打ち破れるという誤った思い込みを持たせるためではないか?